■2009年10月3日〜11月29日 カーデザインの歴史 −NISSAN 情熱と機能の美−
                                     
レポート
<PART-1>

  初めての美術展でした。何故にこの地て、またこの時期なのかは確認出来ていませんが、こうした
  催しを企画・推奨・協力してくれた多くの関係者の皆さまへ深く感謝と敬意を贈りたいと思います。
  
  久しぶりに足を運んだ美術館でしたが、その多くは撮影やメモなどが規制されています。
  資料の劣化やデーターの流失、企業秘密など仕方無いことですが、この展示会は全く規制がされて

  いませんでした。 これは私にとっても大変に嬉しいことでした。撮影は2台のデジカメで、約800枚
  の資料を残してくれました。
  


(1) 早朝、たいした渋滞も無く千葉県松戸市から約2時間ほどで、この平塚美術館へ来ることができました。
 平塚市内に設立された、閑静な住宅地に位置する、市民に密接した美術館と思います。
 
 とかく、美術館や博物館などは、郊外の自然豊な超閑静な場所に多く存在しているように思いますが、
 この地のような、市民に密接した都市型内接な美術館も新しい存在の仕方かなと、考えさせられました。

 

(2) この美術館の外館から見ると、そこにはガラス越しに旧車が見えますね。
  ここはさておき、この駐車場で以外な車両に再会できました。 S15シルビア・オーテック製の
  メタルルーフのコンバーチブル車でした。

 第33回東京モーターショーでの公開以来、その多くをあまり見ることが無かった名車ですが、
 ここで数年振りに見ることが出来ました。 S13のシルビアにも日本製と米国製の幌型・電動の
 コンバーチブルが存在していました。 弊社でもその逆輸入車の北米仕様・コンバーチブルの、
 修理・補修のため、専用のパーツを輸入したことなど有りました。
 
 美しい車体と、その驚くべき完成度の機構にあったたかと思います。工業技術は、時としてその
 機能に芸術的な完成度を美として表現してくれます。

 (ただ今、そのモーターショーで撮影した画像資料を探しています。青の車体をスティールカメラで撮影したのですが、
  あまりの資料に埋もれてしまっています・・。デジタルの方が、確実に整理し易い・・・。)


(3) 上段・中央の画像は見慣れない、形状と未公開に近い存在の電気自動車です。
  まさかこれでは、と思いつつも、近未来のスポーツカー"Z"であるとしたなら、何を思いますか?

  たった1枚の画像しかここには出しませんでしたが、それは今回の展示の趣旨とはやや異なるかなと
  の思いからです。 でも、詳細はお話いたします。
  2007年のドイツ・フランクフルトモーターショーで出展された、コンセプトカー「MIXIM」です。
  やや大型化してしまった、現行のZ34(370Z)ですが、化石燃料の省資源と二酸化炭素環境問題から、
  日産は急激な方向転換を余儀なくされています。 極秘ですが、次期Z35の計画には○○が有ります。

  元に戻ります。1階の展示スペースには、名を馳せた歴代の代表的日産の車両が並んでいました。
  外の外郊から見えた車両です。手前側から、DATSUN113(初代ブルーバード)です。たった860ccのエンジン

  ですが、この後の210型から、北米大陸へ輸出されています。(中段の青色のセダン)

  下段の左側は、初代のサニーB10型です。車名は一般公募されましたね。覚えています。
  A型エンジンの1000cc車でした。とってもエコなサイズですね。今でも通用しそうです。

  下段中央と右端は、初代のシルビア。1600ccほどのエンジンですが、ハンドメイドの制作工程が多く
  やや他社には無かった作り方をするところは、今も変わっていませんね。その為、価格も高く生産台数も。



(4) 上段左側は、プリンスから引き継いだスイカイラインC10型(1968年)。 1500ccのセダンであるが、
  スポーツカーセダンとしてその後、2000GTの時代を築いたL6型エンジンを搭載したロングノーズとなり、
  GT-R(S20エンジン・GC-10)の登場を果たした。
  
  同時期、これらの一部パーツ(サスペンション)を流用して本格的・米国型のスポーツカーS30型が登場した。
  1969年の10月に登場したS30型この車両に、初めて"フェアレディZ"の名称が与えられ、北米市場には、
  Z(ジーカー)の名前で呼ばれた。 この以前には、SP型やSR型のロードスターが有り、北米市場へも投入
  されていました。日本では、このSP・SRもフェアレディの名称が有ったが、米国市場ではDATSUNスポーツ
  ロードスターとして存在し、現在もZcarとは一線を引いて区別している。 画像は432であるが、このツカム
  エンジンを搭載した、S20型のエンジンは海外輸出はされていない。

  Zと同色を塗装された510型・ブルーバードが並んでいた。この車両も米国市場へ投入されて、絶賛された
  セダンであるが、この展示車両は日本専用のクーペとなり、今でもなお多くの米国のファンが、この車両を
  入手したがっている。Zcarも510も、初めて北米市場でレースに参戦して優勝をさらった。
  SP・SR型も参戦していたが、Zcarの優勝は本格的2シーターのスポーツカーとして、価格帯も安く当時の
  欧州車のポルシェやトライアンフなどに比べ、高性能を指し示した。


(5) 1階の展示フロアーから、2階の今回の展示スペースへと移動した。
  近代絵画や彫刻など、日本画も含め幅広く親しみやすい芸術・文化を紹介している美術館らしく、肩ひじ
  を張らなく手もよい、気さくな展示を心がけているように思えるここの施設でした。

  1000円の入館料を支払い、順路に従って撮影を記録しました。
  入り口にあった、初代シルビアの模型は横浜の日産本社のロビーに通常展示してあった、1/4サイズの
  同じ物と思います(その他にも有り)。さすがメーカー製のモデルですね。見応え、最高でした。

  戦前からの資料がこうして多く保存されているのが以外でした。多くは、デザインとしての表現を多く展示
  した内容ですが、技法やその時代・時代の流行など興味深い、時代背景もかいま見ることも出来ます。
  古い物の多くは、貴重な遺産であるため、ガラス越しにしか撮影が出来なかったので、やや見づらいのは
  ご容赦ください。


 
 

(6) 大きく自動車のデザインが変わってきたのは、戦後の1950年代に入ってから。
  戦後の日本社会はGHQの統治下、規制の一つであった自動車産業が解禁されたのを機に、飛躍的
  な変化を迎えた。
  1960年に入ってから、「大衆車の時代」が訪れた。カローラ・サニーなど、大衆車として認知され、この
  次期に軽自動車も新しい特別な区分として登場した(税制面などで優遇)。

  1960年代に飛躍的な発展をした自動車産業であったが、1970年代に入り初めての排気ガス規制と、
  1974年に中東で勃発した、第4次中東戦争で石油関連のガソリン価格が急騰した。

  1980年代に至っては、米国からの輸出規制やこれらに伴う、課税規制などから日本企業の海外進出
  が始まった頃となった。 後半は、高級車のレクサスやインフィニティなどが登場することになる。

  1980年に入り、日本の高度成長の熟成期が終わり、プラザ合意以降に急激な円高となり、日本は
  これまで経験のしたことないバブル時期を1990年に迎え、同年中頃にその終演をすることになった。

  2000年代は現在の始まりから、2009年の今年に大きく流動した時期と思う。
  1996年に日産のZの販売が北米市場から撤退した。これは日産だけではなく、TOYOTAのスープラ
  やマツダのRX-7も同じであった。起因は、車両の高級化とその価格の高騰であったと思う。

  1996年に最初のTOYOTA製プリウスは、販売された。 高級車のレスサスやINFINITIは米国市場
  を長年ぎゅうじって来た、欧州車のベントやBMWを抜いた。高い車両が売れない訳ではなかった。
  確信は無いが、この時期米国では若者のスポーツカー離れが始まっていたかと思う。
  Z32のターボ車は、5万ドルを越えるかのような高級車になっていた。IMSA・LeMannsなど優勝して
  いたZではあるが、あまりに若者が購入出来る車両では無くなっていた。


(7) 歴史的背景はこの辺にして、カーデザインの本流に入りましょう。
  本来、自動車のデザインは機能性よりも外観から見る印象として、その美しさを求めるものに有ると思い
  ますが、ただ美しさのみを追求するならスポーツカーに集約されるでしょう。それは今も殆ど変わらない。

  まず、これらをデザイナーが表現として用いた技法が紹介されていた。大変興味深かった。

  1950年代、「水彩画描法」として多く用いられた、写実的な絵画法であった。
  ワトソン紙と言う名の専用水彩画の洋紙であった。吸水性が良く、紙質も厚く丈夫である。

  その後、1/4サイズ(または1/8)のクレイモデルと呼ばれる、立体デザインを表現してみる。
  外観や角度に応じた。3次元的な表現も確認していく。


(8) 1960年代に入ると、「ハイライト描法」として海外からの技法が、輸入採用されてきた。
  平面にハイライト(光と影・陰影)を淡く描き、イメージを作るものであった。印象派的な画法であった。

  この時、まだ日本には浸透していなかったパステルを使い(チョークに似ている)、ミューズコントン紙
  が使われ、多くはカラー紙で目も粗くパステルの定着は良かったが、扱い慣れない素材で苦労した
  ようであった。私もドイツ製の200色近いパステルを使用して、アールヌーボーの血を引くミュシャ画
  を模倣したことがあった。淡彩画とは違った新しさが、新鮮であった思いがある。

  自動車のような立体物は、立体デザインとか工業デザインとして、一般的な平面デザインとは異なる。
  平面デザインは、広告・商業デザインとして区別をされているが、共に領域を共有している。

  左側のハイライト画は、習作として海外から購入した作品と思われる(推定)。
  ブルーバードの310型など、この技法で最初のデザインが表されたようだ。