■2007年 6月米国ロスアンゼルス周辺の事情や、北米日産本社の移転後などのレポート記 
                                               <PART-1>

   2006年4月には、北米日産がLAから撤退して、遠くテネシーへ大がかりな引っ越しをしました。
  遠く日本の方々には関係の無いことですが、私達日本からの訪問者にとっては、大変なことで
  あり、またCA周辺にある日産デイラーなども少なからず影響は受けているかと思います。

  なぜならLA周辺は、日系企業の本社が多く存在し、TOYOTA・ホンダ・いすゞ・三菱など自動車
  産業に関わる重大な情報や、人員が移動している環境地域であると共に、メディアやパブリシティー
  など、最新の情報を得ようと人々の交流も盛んな地域だからです。
  ちょっとここで北米日産に関わった、歴史事項などお世話になった方々と共に紹介したいと思います。

 米国に"DATSUN"の名称で上陸してから、もう約35年以上も北米日産の本社として全米からカナダに
 至るまで、その拠点として機能を果たしてきた、ここ米国日産本社の社屋が完成したのは、1972年。

 当時に資料などかき集めてみましたが、その実状を知る方々はもう少なく近年の情報のみお伝えいた
 します。

 ・・・マスターデポ・・・。ここがCAから無くなる・・CA州政府を初め多くの人々が移転反対を嘆願しました。
 当時、北米日産の初代社長の片山豊氏がこの移転にもっとも強く反対したことはあまり知られていませ

 んが、私(Hiro)がこの移転計画を知ったのは、2005年の6月頃でした。ショックでした・・。でも私には、
 どうすることも出来ない大企業のトップの決断でした。
    2005年1月23日。私は、初めてこのことを聞いた・・。あまりの衝撃に私は言葉を失った・・。
   東京の日産本社では、ずっと以前から一部の役員だけの間でこのプロジェクトは進められ
   てきたのだとは思うが、LAのノースNISSANへはいつ伝わったのか知らない・。
   "Sayonara South Bay"・・・・本当に悲しい出来事となった・・・
   もう、DATSUNは永久に復活しない・・・。
                 


Sayonara South Bay!to NISSAN
Sayonara South Bay!to NISSAN
Sayonara South Bay!to NISSAN

(1) ここの報告レポートは、昨年の2月頃に書いたものです。 当時、このレポートを掲載するのにやや躊躇も
 あり、封印していましたが、今回お世話になった関係者の皆様へ、お礼のメッセージを伝えたいとの思いと、
 こうした歴史的北米日産の経緯を、淘汰したいとの思いからまとめてみました。

  上の画像はテネシー・ナッシュビルの地元新聞に掲載された片山豊氏の記事と、コメントです。
 ・・要約すると、最初のコメントとなります。黄色の文章です。全文は約A4で2ページに及ぶレポート
  です。北米日産の広報Fred StandishからMr.Ghosnへ直訴をしたことも記事されていた。
  コストカッターの異名で知られる、カルロス・ゴーン氏への決定であることは周知の通りである。
  カルフォルニア州の州税と、テネシーの企業税などコストと超大型生産工場があるナッシュビル
  への本社移転は、日本の経済新聞にも掲載されていた。
  これは私個人(MH)の見解であるが、この結果が評価されるのには、10年の歳月が必要であろう。
  私の知人も東京の日産本社へ呼ばれたそうだが、多くの優秀な米国日産の友人達が、日産を離れた
  ことは、言うまでのないことだった・・・。


Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
                Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
              Legend of DATSUN

(2) 画像上の左端は、進出当時の米国日産本社の事務所、1960年代のあった平屋のデポです。
 カーソンの本社社屋は、1970年(昭和45年11月)より設計に入り、1972年5月に完成しました。 
 当時の初代米国日産の社長を勤められたMr.Kこと、"片山 豊"氏の就任当時のお写真が何故か
 懐かしいのは変ですか・・・私じゃないです。秘書のジョニーさんでしたね。
 この当時、もう片山氏は米国での成功を躍進していました。"生涯、私はNISSANのセールスマン"と
 言われていますが、十分その気迫を感じる社長室でのお写真でした。

 このころの日産社内の広報誌を読んでみると、北米などへの輸出専用運搬船が、数船籍あったようで
 建造しても間に合わないほどのピストン輸送のようでした。
 船名は、追浜丸・座間丸・本牧丸・神奈川丸や日産丸などでした。・・・現在もなお、週に1〜2船の車両
 専用運搬船が、北米や欧州・アジア地域へと日産の車両を運搬・輸出しています。
 2005年現在、契約輸出専用船も入れると、約70船以上も世界中に日産の車両を運搬しているとの
 事だった。
 (2007年・平成19年8月現在本牧埠頭より)


3) 右側の記事は、当時のニッサングラフ(社内報)に掲載された米国日産の
 新本社社屋が完成したときの紹介記事です。
 完成時は昭和47年5月10と11日に、当時の川又日産本社社長や米国
 日産・片山豊社長ら関係者多数が参列して開所披露式が行われたとの記
 事実があります。
 
 当時は、円とドルの為替レートは固定方式で、$1=360yenの時代でした。
 それだけではなく、海外への出国にも制限があり、もちろん米国への渡米は
 、商業目的しか認められてしかおらず、米国大使館に行ってピザの発給も
 受けなくてはなりませんでした。・・・今はいつでも、誰でも行けるけどね。
 
 この頃、私の父(没)が渡米したりしていましたが、職業が違っていたので、
 DATSUNのカタログは、もらって来ていないのが残念だった・・。
 その後、私自身が渡米(もちろん仕事として)行くようになったのは、1986年頃
 でした。(プライベートでの初渡米は、1978年。)

 しかし、その私ですら北米日産の本社へ仕事として、訪問するようになった
 のは、1996年になった頃からでした。・・今思うと短かったな・・。
 短い間でしたが、でも大変濃い訪米の時期でもあり、米国日産の多くのスタ
 ッフの方々に支えられ、各地(テキサス・サンフランシスコ・ニューヨークなど)
 と、思い出の多い期間でした。

Legend of DATSUN

Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN
Legend of DATSUN

(4) この約10年間に、北米日産本社を中心にお世話になった、多くの米国の友人達を写真で掲載して
 みました。ちょっと多いようかも知れませんが、これほんの一部の方々です。
 集合写真や記念撮影など、いろいろありましたが、こうして紹介するのは、初めての試みです。
 お名前は掲載しましたが、詳細は割愛させていただきました。

 米国日産の友人も、NA日産の本社から離れましたが、彼は、私にこう言っていました。
 「私は今でも、NANを愛している。しかし、それ以上に家族も愛さねばならない」・・と。
 テネシー・ナッシュビルは、あまりに遠い・・・。
・・2008年10月に新NAN本社のビルは、完成予定
 をしています。・・・Paul、行くからね。Hiro


(5)このプレートは、日本的には定礎となります。1972年となっています。
 こちら米国日産で、1番お世話になったのは、広報のディンケースさんでした。
 2006年、彼はNISSAN NORTH AMERICAを離れました。8月頃、私に最後の手紙を記念品と
 共に送ってくれました。 We wish to express our gratitude deeply for your having helped me.
 Thank you very much. my best friend

   

(6)2007年・6月のNANの元本社ビルの様子です。2006年には、LAの不動産会社に転売されています。
 この時期には、もう一部の敷地や事務所が、他社のオフィスとして使用されていました。

 北米日産の仮ミュージアムに有った、古い車両やレーシングカーは、テネシーへ運んだようですが、
 一部の旧車両が、かなり屋外の駐車場に放置されていました。
 もうそれらの車両は、姿を消していましたが、どうしたのでしょうか・・・。貴重な歴史と、産業技術や
 工業デザインを削除してしまったのでしょうか・・・。


   

(7)2005年・12月の頃、偶然NNA(ノースアメリカNISSAN)の1階ショールームの半地下にあるミーティングルームで
  私たちは、テネシー州のナッシュビル町の情報や不動産のパンフレットを見ることが出来ました。

  NNA(北米日産)の移転は、現実のものとなり膨大な生産工場に隣接された、本社ビルを建設中とのこと。
  2008年10月に完成予定と聞き及んでいます。 是非に訪問したいと思っています。